若宮さんとは

若宮神明社 五等級

【創建】文禄年中(1593年~96年頃)後陽成天皇(第百七代)の時代
【御祭神】  天照皇大神 素戔嗚尊(合祀)
【境内末社】 万度御祓社 白金龍王社 豊受大神宮 秋葉神社 

 伊勢神宮親書によれば、この地域は1040年頃もともと中島郡奥村と呼ばれ伊勢神宮の御厨地であり毎年御奉納を行っていたことから、当時から神明社は存在していたものと推測される。正確な創建月日は不詳であるが後陽成天皇の時代文禄年間の資料からは明確な記載が残されている。文禄年間に交通の要所として栄えたが木曽川堤が幾度も決壊氾濫し、住民大いに困窮に至る為、伊勢神宮大麻を奉斎し、万度の祓いを治めたところ川瀬変じて田畑になったと云う。万度社は此の時の決壊箇所とも云われる。住民は此の神宮の御稜威を仰ぎここに神明社を建立し奉祝したものと伝えられる。

 其の後にも、明治年間の美濃方面からの大竜巻が木曽川を超えて襲来したが、当神社付近にて消滅し事無きを得たことや、大東亜戦争末期の米軍による一宮一帯の大空襲においても、数十発の大型焼夷弾が投下されたが、一発として発火することなく不発に終わり火災を受けたものは一戸もなかった事、当神社に落下した爆弾も不発に終わった事は大きな奇跡であり、氏子崇敬者一同の崇敬の念が高まり奉賛会を組織することとなった。

 戦後復興期にはガチャ万景気の波に乗り、大いに地域が盛り上がり、一宮町・奥町と並ぶ程の税収を誇った。そのような好景気の折、昭和25年4月例大祭にて白蛇がご鎮座され後に昇天せられ、急遽大祭を執行し弔う。そして熱心な伊勢神宮への日参により神宮荒御魂の御分霊を賜り、皇大神宮荒御魂社(現 白金龍王社)の創建を行い住民大いに歓喜した。

 合わせて、素戔嗚尊を合祀することにより茅の輪くぐり(夏越の神事)を盛大に行い、村人皆集まり活況を極め雑踏と化すほどの賑わいとなる。この流れの中で豊受大神宮・秋葉神社も御分霊を頂き、これらの活動により7等級から5等級へ昇級申請を行い実現し住民大いに喜び奉祝した。このように奥町の存亡の危機から栄華の時代と共に若宮神明社は歩んできた。

 また本神明社と伊勢の神宮とは殊の外関係が深く、神宮式年遷宮の御用材御神木の筏船着場ともなっており、御送迎の祭典を熱心に執り行ってきた。昭和二十九年第五十九回式年遷宮の際には御用材古材を拝領し、其の中には別宮滝原宮の大鳥居があった為、神明社の西側木曽川堤防に伊勢神宮遥拝所を建設し御神徳を仰ぎ奉った。その後第六十回、第六十一回と続いています。 

神社格の歩み

昭和十九年  村社神明社から若宮神明社に社名変更

昭和二十二年 七級社に決定

昭和二十六年 五級社に昇級

毎年7月後半 夏越の神事 茅の輪くぐり

素戔嗚尊をお祀りする若宮神明社の恒例行事です。毎年7月の最終週末に「提灯祭り」とも呼ばれ、参道一帯に提灯を灯し、多くの人で賑わいます。茅の輪を8の字に回ることで、正月から半年間の穢れを祓い、残り半年の無病息災を祈願する神事です。

<茅の輪くぐりの由来>

スサノオノミコトが旅の途中に宿を求めた、備後国の蘇民将来(そみんしょうらい)との逸話が起源です。

貧しいにもかかわらず、喜んでスサノオノミコトをもてなした蘇民将来に対し、弟である巨旦将来(たんしょうらい)は裕福にもかかわらず宿を貸そうともしませんでした。数年後、再びスサノオノミコトは蘇民将来のもとを訪れ「疫病を逃れるために、茅の輪を腰につけなさい」と教えました。

教えを守った蘇民将来は難を逃れられ、それ以来、無病息災を祈願するため、茅の輪を腰につけていたものが、江戸時代を迎える頃には、現在のようにくぐり抜けるものになったといわれています。

「蘇民将来(そみんしょうらい)」と繰り返し唱えながら、茅の輪をくぐります。輪をくぐる瞬間は、不思議と身が清められる感じがします。

歳旦祭(元旦祭)

毎年大晦日の夜から準備を始めまして、零時丁度から歳旦祭を行っています。国旗掲揚しお集まりの方全員で国家を斉唱します。

そして、かがり火を焚き、皆様の清祓いをさせて頂いた後に本殿にて歳旦祭を斎行しております。

一年の始まりを氏神様で初参りください。ご参拝の後で、甘酒(アルコール無)と、みかんをお配りしてます。

また特設の授与所をご用意致しますので、開運だるまみくじや御神札、各種お守りもお受け頂けます。


尚、古札・古熊手・古お守り等は1月15日前後の日曜日に「左義長」を行いますので、その時にお持ちください。

毎年1月 左義長(古札お焚き上げ)

毎年1月15日前後の日曜日に左義長(古札お焚き上げ)を行います。お焚き上げの「火」を使って焼いたお餅を食べると病気になりにくくなります。当日は汁物(無料)をご用意しますので、お召し上がりください。